オーストラリア旅行記 前書き・1日目
九月の後半頃同期のHとオーストラリアに旅行に行ったのだが、人生史上最低最悪の旅行となった。この八日間で起こったことをひと口に言えば、Hに人間扱いをされなかったのであり、こちらも自分を人間扱いしなかった者を今後人間扱いするつもりは毛唐なく、Hは今私に苦言を呈されて逆上した状態のまま、一切の私との交流を断絶している。これから私が著そうとしている手記は当初からHの罵倒記となることを私自身が明に意識しており、目的はそれをネット上でさらしものとするという公開処刑に他ならぬ。Hがこれを見て更なる逆上をしようが奇跡的に改悛をはかろうがその結果は私にはもはやどうでもよく、単に人を人として扱わぬ者を、こちらも人として扱わぬ意思表明として本稿を書くのみである。
一日目
私は十年間海外旅行をしたことがない。旅行の頻度も人に比べて極端に低いと言ってよくいわば旅行初心者である。翻ってHは旅行上級者であるわけで、そういう意味ではなかなか失敗も多いわけだが、ともかく私は空港の待ち合わせに五分ほど遅刻したのである。別に私は私の遅刻を正当化するわけではなく、スーツケースを持っていると乗り換え案内の通りに乗りかえるのは難しいのだなという学習は学習として、Hはこう言い放った。
「お前のことだから直前になってやっぱり怖いとか言ってドタキャンするとずっと信じていた。だから来ねえからやっぱりなと思っていた」
旅は長いのである。遅刻したのはこちらであり負い目もあるので私は笑ってごまかした。しかし数十万も払ったあげくドタキャンをするほどの人間というのはこの時点で腹を立ててもよい言われようだが、しかしこれは今回の旅行の壮大な悲劇の序章に過ぎなかったのである。
さて、さらに私はスーツケース以外の荷物を持っていなかったかどを馬鹿にされる。なんでもそれが旅行の常識であるそうである。ウェストポーチはつけていたのだし軽快な旅行ができるかと思ったのだがそうではないらしい。まあ経験値が少ないのでへえほうふうんと素直に納得する。
飛行機は一路ケアンズ空港に着陸しようとする。アナウンスがよく聞き取れず、電子辞書を取り出して使おうとするとHは警告する。
「電子機器使ってんじゃねえよ!」
確かにうっかりしたと思い素直にしまう。窓の外の景色をHはデジカメで撮影している。……デジカメ?
「デジカメも電子機器では?」私は言った。
Hは無言でしまう。偉そうな態度だったにもかかわらず別にばつの悪い顔をするでもない。
ケアンズの空港で荷物を受け取って乗り継ぐ。しかし、私はもはや荷物がどうやって出てくるのかも忘れている。少なくとも見よう見まねで行動するほかはない。……便数がディスプレイに表示されていることすら認識が遅れてしまう。Hの口に出した便数をオウム返ししてディスプレイをぼんやり見つめたところでまたつけ入れられる。
「お前は何もかも親にやってもらってたんだなあ」
今思えばお前は十年前の入社式の日にどこに何が書いてあったのかいちいち覚えてんのかよとか反論の余地はあった。十年とはそういう歳月だ。呑気すぎる親に苦言を呈した経験も頭をかすめたが結局楽しく旅行しなければという思いから反論も特にしなかった。この時点からいちいち丁寧な反論をしてゆかなかったことがHをああまで増長させてしまったことは否めない。その点では大いに反省すべき点であるが、もはや先に立たぬ話でしかない。
外に出てまた案内が来るまで待つ。
十年ぶりの外国の空気がひんやりと冷たい。
ベンチに坐ってリラックスしつつその空気を満喫しているとHは言った。
「ドキドキだろ?」
「いや、全然」
「ドキドキしろよ!」
リラックスしていたのは事実だしそれを正直に述べただけなのだが。心拍数を測ったとしてもそれを証明することはできただろう。しかし、私はこの「ドキドキしろよ!」というHの言葉こそ、この旅行をもっとも象徴していた言葉だとのちのち散々に思い知ることとなる。
さらに国内線の待ちロビーで空港で、エアーズロックの国内線までの待ち時間を潰す。とにかくサブバックを買えというHの強い勧めで、空港内の売店で買う。
安そうなものを見つけもっと安いものがないか訊く。容易に英語が通じて感動する。
「これが一番安いです、これは良いものですよ」とマ・クベのようなことを言う店員からそのリュックを買ってHのところへ戻る。Hは言った。
「なんでそんな子供っぽいデザインにしたの?」
「いや単にこれが一番安かったから…」
別にアニメキャラが描いてあるわけでもないしごく若向けのポップなデザインだと思うがともかくHの価値観では子供っぽいという。将来は最低でも部長より上の位を狙い、管理職を目指さぬ者を軽蔑しているHのことだから何か銀座的なものを目指したいのかもしれない。
ともかくこれらの会話で得られた情報から私が当然のように英語で会話していたことをHは悟るべきであった。が、彼にそのような推論能力など備わっていないことを私は知ることになるのだった。
別の案内の人が来る……この旅行会社はかなりガイドを多く雇うらしい、しかも日本人ガイドばかりで私は少々拍子抜けしていたがそれも旅のノウハウだとHは自慢げに言う。後にして思えば「海外で失敗したりしたらどうしよう」というHの小心を見いだすこともできる。むろん良識があればこそそんな邪推はしないのだが、Hが私になした悪意と同等の悪意をもって邪推すれば、というレベルの話だ。そしてそのガイドが日焼け留めの話を偶然したので、そんなに日差しが強いなら空港で買えるなら買いたい、と申し出ると、Hは目を剥いて言った。
「用意が悪りいんだよ!」
溜息を押し殺して店まで行くがなんとHも買うという。
「足りないかもしれんから」
用意が悪いんじゃなかったのかよ。
エアーズロック空港でまた荷物を受け取る。荷物が流れ出てくる場所で待ち受ける。荷物を受け取る場面は一度経験したので特に迷うような場面でもない。
Hは言った。
「俺トイレ言ってくるから『見てて』」
「そんなこと言われたってわかんないよ」
「ここしかないんだからわかるだろ!」
「そうじゃなくってそっちの荷物の特徴なんて覚えてないって」
「あ、そうじゃなくてどこから出てくるか見ててってこと」
ここしかないのなら何を確認する必要があるのか不明だが、このあたりで私は呆れ始めていた。と同時に私の父親のことを思い出したのだ。私の父親は私が野菜を食する場面を網膜に映ってもどうしても認識できないのだ。そして成人してもなお食事のたび「肉ばっかり食わないで野菜も食え」と言う。おかげで私の「野菜食い」は飲み会の持ち芸になった。それと同種のフィルタがHにはかかっているようだ。この脳内フィルタは矯正困難だが、その有害性を私はまだ甘く見ていた。
初めて踏む南半球の土、実に雄大な世界がそこにあった。真っ赤な土を踏み占めながら土漠を歩く。ただこれだけの熱帯の大自然なのに蝶がいないのは不思議だった。私は子供のころ父に仕込まれ、日本の蝶はかなり詳しいのだ。標本も作れる。私は素直にそれを口にした。
「蝶がいねえな」
「しらねえよ!」
何も興味のない話を無理矢理詳しく語り始めたわけではなく単にたわいない話の一環であっただけだが流し方と言うものがあるだろうに。
ホテルに昼ごろチェックインする。
しかし夜の時間が空いている。何やら星空観察ツアーがあるという。私は言った。
「おおっ、いいねえ」
「そうか俺は一人でも行く」
意味がわからない。わからないまま訂正する。Hは予約の電話を入れ始め会話をするが、何かメモが必要になったらしい。だが私も手持ちがない。
「つっかえねえ野郎だな~」
私は昔見た漫画で、小学生の子供が祖父にジャンプを頼んだら週刊でなく月刊を買ってきたと言って「使えねえなあ」という台詞を吐くシーンを思い出していた。今から思えば「用意が悪いんだよ」というさっきの台詞を投げ返すとか気のきいた対処はあったかもしれない。だが私は暴走してゆくHをあっけにとられて見つめていたというのが正直な当時の感想である。気がつけばHはもはや触れると危険な狂人の域に入り始めていた。
Hが電話をしている間に、「俺は一人でも行く」という発言が出たプロセスをようやく私は理解する。Hは私が海外で恐怖に脅えていなければならないという願望のあまりに「いいねえ」を「行かねえ」と強引な意思をもって聞き違えたのであった。
まだ旅は始まったばかり、穏便に穏便に……先が思いやられる。
私の特殊な性向を知るHのたっての希望で部屋は高い金を払って別室にした。だが、それはもちろん夜の話であって、それまでは談笑したりプランを練ったりするのは共に旅行に来れば普通のことだと思う。しかしHの部屋にいた私に突如Hは言った。
「なんでおめえが俺の部屋にいるんだよ!」
そこまで言われてしまっては私もHと居るのが不快なのでとっとと部屋に入る。冗談ではない。
午後三時ごろバスツアーで集合開始、しかしHがギリギリでトイレに行くといいバスを一分ほど遅らせた。遅れて来たHに
「何やってんだよ……ハハハ、悔しいだろ」
という言葉を投げつけるのがおそらく最もスマートな対処であったろうと後からは思う。だが私は既にこの時Hの相手に疲弊し始めていた。Hの相手に疲弊しているのに、私が海外経験に疲弊していると思い込んでいるHに疲弊しているのだった。
バスでもう少しエアーズロックに近づいてさらに雄大さに心打たれる。同行者はひどくとも国土は良い。
バスを降りかけるときに明日のエアーズロック登山ツアーで、弁当とチケットの扱いがよくわからない、という話になる。ガイドは途中のホテルで降りてしまうので、その前に聞きに行かなければならない。私もHも疑問に思っている。そして通路側にHが坐っていて、私が出るのが困難な状況である。Hは言った。
「訊いてこいよ。それぐらいの役に立て」
ここで揉めたらバスが出てしまう。もはやこれはパシリと言わないか? ともかく訊いてくる。
夕食はホテル内のレストランを指定されている。レストランの店員に場うバウチャーチケットを渡し席につく。が、背後にビュッフェらしきものがあるがそれを使って良いかわからない。
私は早く食べたかったので席を立ち店員に英語で訊く。
「我々のバウチャーチケットはあのビュッフェ用ですよね?」
「そうです、好きにお取りいただいてxxx」
実のところ後半は正確には聞き取れていないのだが大意はわかる。私は安心して料理を取り席に戻るとHが腕組みして睨んでいる。
「本当にあれ取ってきていいの?」
「いいみたいよ」
私はいそいそと食べ始めるがHは信用しない。Hは店員を呼び説明させる。
「食事の仕方を説明して頂きたいんですが…」
店員は同じ意味のことを言い私はそれみろという目をして食事を続ける。だがHは店員が去ると目を剥いて言った。
「きけよ!」
「きいたじゃん!」
一体――何を言っているのか。決してHの死角に隠れて訊いたわけでもない、網膜に私と店員が喋る図が明確に映っていたはずである。この脳内フィルタはいくらなんでもひどい。もはや、思い込みとかそういうレベルではない。Hは狂人のような、というレベルから脳生理学的に狂人化しつつあった。
その後の件の星空ツアーを経て一日目が終わる。正直この調子で八日間やられてはたまらない……。
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